地方自治と行政能力

この20年間、地方自治体論が盛んであるが、中、長期的には地方自治が強化されると思う。この場合、重要になってくるのが地方自治体の行政能力である。地方自治体に権限を移してから、すぐに地方自治体側の能力が向上するわけではない。体制を整えるために、数年はかかるであろう。
また人事行政も変わらざるを得ない。職員を増やせないので、対応できないという声も聞いたことがある。もちろん無計画に地方自治体職員が増えないようにはしなければならないが、例えば質の保障を行うための専門職などを増やせないのはおかしな話である(生活保護行政でのソーシャルワーカーが不足しているので援助方法が弱いという話も同じである)。何か本末転倒のように思える。これはいわゆる民営化論にも言えることでもあるが、質の保障の議論が不足している。

衆議院選挙が終わって

衆議院選挙が終わったが、制度の違いとは別のおかしな意見も出ているようである。

新聞記事によると、日本維新の会は自治体の首長と国会議員の兼職を禁じる地方自治法改正案を国会に提出するようである。橋下氏は「自治体の長が参院に入れば、政党の抗争と距離を置いて議論できる」とメリットを主張しているらしいが、首長も国会議員も片手間で出来る仕事ではない。国会というのは国会議員の議論の場で、首長の意見が必要なのでれば他の場がある。そもそも国会議員は誰を代表しているかという民主主義上の大前提がある。それくらい国会で議論したいのであれば、首長をやめて議員に立候補したらいいと思う(その点、石原前東京都知事の方が筋が通っている)。
スウェーデンはどうなっているか調べてみた。国会議員は365日24時間国会議員として働くことが前提で、地方自治体の首長もフルタイムの勤務である。法律上の禁止規定はないようであるが、誰も兼職できるとは思っていないし、そのような議論も聞いたことがない。

言葉のあやか本意か知らないが、おかしな発言が載っている。猪瀬新東京都知事が、「民意というものは一番尊重すべきもの。これから都議会と話をする時も、民意を僕が代弁しているんだということを尊重していただきたい」と言ったというのだ。過去最高の得票で選ばれたというのは、民意の表現のひとつであることには違いない。しかしこれと、「都知事が民意を代弁している」ということは別の話である。議員は誰を代表しているのであろうか。そもそも首長は多岐にわたる分野の業務を実施するために選ばれているのであり、各分野の政策ごとに住民の判断を得ているのではない。考えようによっては、かなり傲慢な意見である。
少し政治論的な話になるが、表に現れているのはすべて特殊意思であって、民主主義の神髄はここから一般意志を導き出すことである。そのために政治家が議論をするのであって、首長の意見=民意ではない。これは全く民主主義を理解していない言葉で、何か独裁者の言葉のようである。
議会と首長の「権力の二重性」は政治学ではよく知られた問題で、究極的には誰が住民を代表しているかおよび議会の役割は何かにもつながる問題である。

行政決定プロセスと政治責任

田中文部科学相が3大学の開校を不認可とした問題が話題になっている。後出しじゃんけんがよくないことは、小学生でもわかることである。いくら民主党が人材難であるといっても、法治国家として問題である。これは3大学の開校を認可するしないの問題ではなく、行政決定プロセスおよびそれに対する政治責任の問題でもある。任命した首相、官邸および政治的任命である副大臣、政務官が暴走馬を止めなかった責任は大きい。
大学の質が悪いというのであれば、これを調査、分析して、改革案を出すべきで、数か月で出来る話ではない。昔から駅弁大学とか言って、大学の質が比喩されていた。思いつきでする内容でもない。そもそも大学の質とは何なのか。これがどの様に変化しているか。その原因は何か。大学設置基準の厳格化で、大学の質の低下は防げるか。大学の質と規制改革とどの様な関連があるか。もし大学が多すぎるというのであれば、この責任は政治にあるのか審議会にあるのか。内容があまりにも非科学的で、問題点の把握が単純すぎる。これで政治主導の中身がはっきりしたので、国民も勉強になったと思う。

情報リークとマスコミの責任

先日、日本の知りあいと話をしていて、行政の情報リークの話が出た。
マスコミは種々の情報源から情報を入手するが、常に情報が正しいとは限らない。このために異なった2箇所からの情報をチェックするとも言われている。取り扱いが難しいのは行政からの情報である。特に情報が一部の関係者にリークされる場合は難しい。仮に情報自体が正しくても、リークする意図がある場合が多い。マスコミは自分たちだけが得た情報だとして記事にするが、行政側のリークする意図に気づいていないか十分認識していない場合があるようである。問題なのは、これによって情報が客観性を失い、マスコミが行政のチェックという報道機関としての使命を忘れてしまうことである。

住民参加とは何か

住民参加という言葉をよく聞く。いったい、住民参加とは何なのであろうか。この言葉が使われる場合、2つの傾向がある。第1は決定でのプロセスではなくて、行政が安くあげるために運営分野で住民参加という言葉を使う場合である。この場合目的は費用を安く上げるためなので、どのような条件で何のために住民参加が行われるかということがあまり考慮されていない。この結果、手段と目的が曖昧になる。第2には住民参加と言われる場合、行政と議会は住民の意思を反映していないと言うことが暗黙の了解事項になっている。行政と議会がどれだけ、住民の意思を反映しているかあるいは問題があるかは議論の余地があるが、これを問わない限り議会制民主主義において住民参加というのは、何なのかという疑問がある。いくら住民を100人集めようがあるいは1000人集めようが、これはいわゆる特殊意思の集合であって一般意思とはなり得ない。
よく審議会などで、一般公募で住民代表といわれる人が選ばれるが、誰を代表しているのであろうか。同様に、住民の政治との関係が問われないので住民の責任も問われない。話題になるのは常に政治家あるいは行政などの「他人」であって、政治家を選んでいる「自分」の責任は問われない。第3番目には、住民代表という言葉が使われる場合、議員も入らないし、行政職員も入らないことである。第4には、決定プロセスにおける住民参加が実現するためには情報公開が最低必要条件であることである。情報が公開されてない場合は、住民は意見を言おうにも言いようがないのである。(2003年12月2日記、2009年11月29日追記)

小さな政府

 立花隆氏のメディアソシオポリテックス「http://nikkeibp.jp/」の第50回に小泉政権のことが出ていた。部分的に引用してみる。

 「小泉首相の頭の中には、「大きな政府」は諸悪の根源という発想が抜きがたくある。逆に大きな政府を小さくすることはすべて正しいと小泉首相は考えるから、「民でできることは民にまかせる」が聖なる大原則となる。官は民ではできないこと、民では不都合なことだけをやればいいから、「小さな政府」にするのがいちばんいい。-------だがその結果どうなったかというと、この通りのデフレ経済(経済の縮小再生産過程)になってしまったのである。-------- ソ連経済のような「大きすぎる政府」はむろん誤りだが、小さすぎる政府も同様に誤りである。デフレにトラップされた場合、小さな政府では、そこから抜け出すことができない。ここ数年の日本経済が陥っていた苦境は、デフレ・トラップにはまりこんでしまったがための苦境である。---------」

 日本は先進国の中でも、公的セクターが一番小さいのである。総務省の資料によると日本の公務員数は人口千人あたり32人であるが、アメリカは78人、ドイツ55人である(アメリカよりも公務員数が少ないということが報道されたことがあるのだろうか)。問題なのは、民間に出来ない行政としての責任を十分果たしてないことである。またこれらの議論で、何が目的で何が手段かということがもう一つ不明である。単純に公務員の何パーセントというのではなくて、裏金作りに関与した公務員、汚職した公務員、談合に関与した公務員および議員、盗撮、痴漢をした公務員、庁費を流用した議院事務総長、議会で暴力をふるった議員、強行採決に関与した議員、セクハラをした議員、不正行為のあった議員とかを片っ端から辞めさせてはどうだろうか。手ぬるいだろうか。民主政権になっても、この考え方は変わってないようである。(2005年10月13日記、2009年12月2日追記)

税金は安いが非効率

 数日前に、おもしろい報告書が発表された。日本総合研究所の「国税・地方税・社会保険料徴収機関分立の問題と改革試案」という論文である。単純な比較は難しいが、一言で言ってしまえば日本は税金は安いが徴収は非効率、スウェーデンは税金は高いが徴収は効率的である。日本はスウェーデンの3倍も非効率である。(2006年3月7日記)

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Taro

Author:Taro
OKUMURA CONSULTING社代表
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