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所在不明者

所在不明者の増大が日本で話題になっている。これが何処まで法律の不備か行政の職務怠慢はわからないが、正確な住民登録がすべての行政の基本であるという 認識が行政機関に不足しているのではなかろうか。ある県知事は「行政が全住民の所在を確認するのは、プライバシーの面で困難」だと言ったらしいが、正確な 住民登録に勝るプライバシーとは何なのだろうかと思う。そもそもは不明者を住民登録上どう取り扱うということがはっきりしていないのではないか。年金など の給付も本人が不明であるならば、再調査すべきではないか(本人が不明であるにもかかわらず、家族が年金などを管理するというのは問題であろう)。今度は 戸籍の問題が明らかになり、200歳の人の戸籍が残っていたと報道されている。戸籍と住民登録とは異なるが、誰が考えてもおかしい。すべての市において問 題が出ているのではなく、戸籍の電算化と同時に定期的にチェックを行っている市も存在する。行政の職務怠慢以外の何者でもないであろう。(2010年8月 7日記、8月27日追記)

 スウェーデンではあまりこのようなことは聞かないが、住所不明が2年間続けば住民登録上は不明者として扱われ る(ほとんどが行政への連絡なしに外国に引っ越しした外国人なので、統計上、移住者に含まれる)。なお確定申告書などの行政連絡が住所不明で戻ってきた場 合は、これは国税庁住民登録部に連絡され住所の調査が行われるようである。(2010年8月7日記)
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市場原理導入と自由契約方式

  98年12月、社会福祉構造改革分科会は「個人の権利や選択を尊重する制度の確立が必要」との意見をまとめたらしい。この改革により利用者がサービスを選ぶ「契約方式」に移行する。個人の選択を尊重するということは前から言われていたこともあり、このような原則について答申をまとめたのはよいことには違いない。しかしよく考えてみればおかしなこともいくつかある。
第1にはこの個人の選択ということは介護保険の議論の時にも言われたが、介護保険が決まってから、このような福祉の原則についての答申をするのは順序が逆ではないのか。
第2には個人の権利、選択を尊重することと市場原理の導入、自由契約とは直接の関係はないのである。今までのいわゆる措置制度の元でも個人の権利、選択を尊重するように運営出来たが、法律的にこれらが保障されていなかったのである。
第3には個人の権利、選択を尊重することとお金の調達方法(税金か保険か)とも関係がない。税金方式であっても個人の権利を尊重するように運営できる。
第4に市場原理の導入は必ず必要であるが、これと自由契約制とも関係がない。また市場原理の導入あるいは自由競争というものは、常に効率的であるという保証はなく、社会的コストという観点からは高くつくこともあり得る(アメリカの医療がよい例である)。
第5に自由契約制の問題点が十分議論、分析されてないように見かけられる。供給が不十分な中で、自由契約制は機能するものであろうか。介護保険自体が自由契約制であっても、保険からの援助が別の公的機関で決定されるということはこれも一種の措置制度なのである。問題は社会的資源が限られているときに、どのようにしてこれを平等および公正に分けられるかということである。自由契約にすれば公正に分けられるとでも思っているのであろうか。この場合の自由というのは、平等および公正が実現される中での自由であり、自由が第1で、平等、公正が第2ではない。
スウェーデンにおいてはすべて措置(行政決定)制度であるが、日本よりはるかに個人の権利、選択性が守られている(もちろんスウェーデンにおいて何も問題がないとは言うのではない)。今回の介護保険の議論はケチャップの瓶のようである。いろいろな問題が一気に出されたが、これらの問題を解決するためには介護保険しか解決方法がなかったのであろうか。それぞれの短所および長所が十分分析されたようには見えない。(1998年12月記)

民活導入と福祉多元主義

スウェーデンにおいても民営化は政治論争になりやすい分野である。民営化、営利あるいは多元主義自体が問題なのではなく、どの様な形あるいは条件で民営化を行って、どの用に質の保障が行われるということである。日本においても、たとえば営利団体のグループホームは社会福祉法人の施設よりも質は悪いのであろうか。
同様にして株式会社形式の医療機関は医療法人よりも質は悪いのであろうか。答えは否である。運営形態の違いにより質の良し悪いが決まるのではなく、各団体における質の保障システムおよび行政の監査システムがどのように機能するかである。日本においても郵政の民営化を初めとして、大きく話題になっている。しかしあまりに単純な議論になってはいないだろうか。日本の論争を見ていると、何が目的で何が手段であるかが十分区別されてないようである。この結果、民営化を業務の効率的な運営のために利用するというよりも、民間市場にうまく業務が利用されていることもある。
今まで公的に運営されてきた業務はそれなりに必要性があったのである。問題は民営化した場合、たとえば公平性とか全国的な平等とかの原則がどのようにして守られるかである。「民間で出来るものは民間で」というのが標語のようになっているが、問題点は運営自体にあるのではなく運営の責任および計画性をどのようにして社会がコントロールできるかということである。先日も特別養護老人ホームなどの民営化に関する厚労省の意見を読んだが、さっぱり理解できなかった。一方では内閣府総合規制改革会議の意見も机上論すぎるように思える。(2003年9月3日記、2009年9月19日追記)

権利擁護

 最近、ある無許可の保育園における虐待の事件が新聞に出ているが、これは行政の怠慢以外の何者でもない。行政側は虐待が行われないように指導していたということだが、こんなのんきなことを言っているから虐待が起こるのである。ある障害者施設で入所者の障害者年金が施設側に搾取されていたという事件もあるが、これも行政の怠慢である。それに無許可の保育園に行政が指導するとはどういうことなのだろうか。このような事件が起こるたびに、権利擁護が話題に上がる。オンブズマンもその一例である。高齢者や障害者の権利擁護を考える上で、権限を伴うことと、権限が伴わなくても出来ることを区別して考える必要があるが、日本ではこれがはっきりと区別されてないように思われる。

 このような虐待事件の場合は必ず公権力で調査することが必要で、この場合の公権力とは、警察だけでなく、監督機関である市や県である。証拠がないから動けないとかよく言われるが、虐待などの事実(証拠)があるかどうか調べるのは行政で、だから公権力が必要なわけである。もちろん警察は犯罪になるか調査するが、これと行政の調査とはまた別である。またこのような事件はなかなか外部からは知り得ないが、虐待らしいと気づいたものは、職員あるいは外部のものを問わず、知った者は行政への報告義務を課すのもひとつの方法ではある。(2002年4月14日記)

奴隷労働

 今日の新聞に、「奴隷労働」という記事があった。アフリカの話ではない。現在の札幌市での話である。「食堂で無報酬のまま奴隷のように働かされた」として、知的障害がある4人が元経営者らに損害賠償を求めて札幌地裁に提訴した。新聞記事によると、札幌市はすでに2001年に兆候を掴んでいたらしいが動かなかったらしい。札幌市は「兆候があったのに問題発見に至らず、申し訳ないと思っている」と言っているらしい。職務怠慢が「申し訳ない」ですませるとは思わないが、のんきな話である。そう言えば、白石区役所というのは、生活保護でも話題になった有名な区役所ではなかったか。(2008年3月4日記)

 

盲学校は差別用語か

 今日の朝日新聞に興味のある記事が載っていた。静岡県教委が「聾学校」を「聴覚特別支援学校」と改名することへの異議が出ているというのだ。新聞記事によると、静岡県教委は「『聾』という字には差別的なニュアンスがある」から変えるというのだ。本当にそうだろうか。著者が今まで気づいたことの一つは、日本では非常に言葉にこだわるということである。特に障害者分野においては、西欧においても言葉の変化があった。また西欧と違って日本は漢字を使うので、漢字が適当でない場合もある。しかしその言葉が本当に差別的に使われているかを分析することなく、教育委員会や審議会などが単純に感情論で差別用語だと決めてしまう場合があるような気がする。同様の問題として、内容を伴わない単純な障害者教育の統合化は害であるように思う。新聞には山本さんという人の経験が書いてあった。

「1歳の頃、高熱で聴力を失った。小中学校は普通校に通い、友人や先生とは筆談や読唇で対話した。移動する教室が変更になったのを知らず、無人の教室で待っていたり、先生の冗談にクラスがわいても自分だけキョトンとしていたり。周りと意思疎通が十分にできず孤独を感じた。高校は筑波大付属聾学校に進学。手話が授業でも使われたので内容がよく分かり、勉強が楽しくなった。同級生と笑ったり怒ったりもできた。」(2008年3月9日記)

「行政が殺した?」

 群馬県渋川市の老人施設で火災が発生し、10名が死亡したらしい。ここは東京都の生活保護者が多く入居していたようであるが、誰を対象とした施設かということがはっきりとしない。日本の制度的なことは十分な知識がないが、いくつもの不思議なことがある。

なぜ無届けで運営できるか。
なぜ許可が必要でないか。
なぜ違法建築が認められているのか。
群馬県、東京都墨田区はなぜ十分な監査を行わなかったか。
なぜ生活保護者のための施設が必要か。
なせ厚生労働省は無届けを各県に対する通知だけですませていたか。
東京都墨田区は区内で高齢者施設が不十分なのであれば、どの様な対策を取っていたか。他力本願ではなかったか。

 高齢者施設としての問題の他に、生活保護行政の問題がある。そもそも入居者は以前はどこに住んでいたのか。新聞記事によれば、ホームレスだったとは書かれていない。生活保護の必要性はあくまで必要な生計費に対して所得などが少ないという理由であり、特別な理由を除き生活保護者のための施設は必要ではないはずである。さらに不思議なのは、新聞記事によれば、墨田区が施設に支払い、その中から施設はお小遣いを居住者に支払っていたということである。何というパターナリズムであろうか。生活保護行政のプロの仕事とは思えない。今回の事件は多数の焼死という形で話題になったが、このようなことは氷山の一角だろう。今回の事件の直接の原因は寝たばこらしいが、間接的には行政による人災であり、「行政が殺した」というのは言いすぎだろうか。行政および議会の不作為も罪である。(2009年3月20日記、3月27日追記) 

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Taro

Author:Taro
OKUMURA CONSULTING社代表
Sweden

スウェーデンの社会政策などを日本に紹介する仕事をしています。
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